2011年9月28日水曜日

封印は花やかに

4年くらい書いてきたこのブログも今回で閉じることにする。

最近はほぼ読書日記になって新味が無くなってきたこと、Googleのブログはシンプルでよいのだが、やや使いにくいこと、などが理由だ。

今後、もしかしてSNSで書くことがあるかもしれない。その時は、名前は「terakoya7」にでもしようかな。

(追記)
最近、ジャック・プレヴェールの本を立ち読みした。映画「天井桟敷の人々」の脚本家だ。この映画は名作ですね。「ロバと王様と私」(だったか)という詩もあった。この詩はたしか『大統領の密使』(小林信彦)にも出てきた。この本も名作だなあ。

2011年9月25日日曜日

法界寺のことなど

 最近、『私の古都巡礼 京都(下)』(淡交社)を読んだのだが、その中で、井上章一が法界寺について書いている。法界寺は、京都の観光スポットではマイナーな存在で、知らない人も多いだろうと思う。
 私も、高校の時だったか、建築・仏像の文化財で有名ということを聞いていて、存在は知っていたが行ったことはない。平安から鎌倉時代初期に建てられたものらしい。


 京都の寺院で観光客の多いところは、大抵美しい庭園を売り物にしている。そして、井上章一の仮説によると、こうした庭は、多くが室町時代以降に作られ、戦国時代末期から洗練された。それは、戦いをつとめとする武人達をなぐさめるという、そうした求めに応じて営まれたのだという。


 仏教が庭園美を生んだのではなく、戦士たちの殺伐とした心がそうした庭を欲した。そうしてできた庭園の管理者に、後から僧侶たちがなった。それと同じものが今、私たちの目を癒している。つまり、味わうものが、仏像や仏画から庭園にうつっていったのだと。


 この仮説の正誤は不明だが、なかなか説得力があると思った。そして、法界寺はそうした寺院鑑賞史の中で、より古い時代の遺構であり、そのためあまり知られていないのだろう。


 しかし、このエッセイを読んでいると、帰省の折にでも是非行ってみたいと感じるだ。このあたりのうまさは、さすがだと思う。 

2011年9月10日土曜日

『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎・大澤真幸 講談社現代新書)

 最近読んだ本だ。例によって井上章一の書評にあったもので、あまり期待せずに読み始めたのだが、これが非常に面白くて驚いた。


 私も井上章一と同じ中学・高校(京都/洛星)出身だ。カトリックの学校で、母体は聖ヴィアトール修道会だ。週1回だったか宗教の時間があり、キリスト教や聖書などを勉強した。


 そのため、私も井上章一が書評で書いたような疑問(福音書によって話がくいちがうのは、どうしてか。イエスは人なのか神なのか。)を感じていたことを思い出した。今でも覚えているのが、イエスはナザレ出身なのに、ベツレヘムで生まれたとあるのはどうしてか、ということだ。ナザレはイスラエルの北部で、南部のベツレヘムとはかなり離れている。この疑問もこの本を読んで解消できた。その他にも、まさに目から鱗という話が次々と出てきて、本当に楽しめた。


 (追記)
 このブログにコメントがあったので、アップしておいた。(2010/5/15 Z会のことなど)
 「らぐらんじぇ」氏はかなり有名だったようですね。